「箱」が本体を越えてしまった時代

最近、あるニュースが話題になっていた。

原材料不足の影響で、食品のパッケージを簡素化する動きが出始めているという話である。

白黒化。

色数削減。

最低限の印刷。

本来なら“非常時対応”として語られる話だろう。

だが不思議な事に、私はそこまで否定的な感覚を抱かなかった。

むしろ、

「中身が変わらないなら別に良いのではないか」

という感覚の方が強かった。

考えてみれば、これは食品だけの話ではない。

現代はあらゆる分野で、「本体より外側」が肥大化し続けている。

フィギュア。

プラモデル。

ゲーム。

限定商品。

そこではしばしば、

“中身”よりも“箱の状態”が重要視される。

未開封。

角潰れ無し。

初版。

輸送箱完備。

薄紙付き。

そうした情報が、本体以上の価値として扱われ始めている。

もちろん、パッケージデザイン自体に価値を感じる文化も存在する。

それを否定したい訳ではない。

だが時に、それは極端化する。

本来、フィギュアは飾るために存在していた。

プラモデルは作るために存在していた。

ゲームは遊ぶために存在していた。

お菓子は食べるために存在していた。

しかし現代では、

開封出来ない。

触れられない。

劣化を恐れる。

箱を守るために空間を圧迫する。

そんな現象が珍しくなくなった。

空所者として見るなら、それは少し奇妙な状態に見える。

本来は“役目を終えたはずの物”が、延々と保存対象になり続けているからである。

箱には確かに役目がある。

保護。

輸送。

情報伝達。

販売。

だがその役目を終えた後まで、

「箱そのもの」が本体化し始めた時、

人は少しずつ“体験”から離れていく。

特に近年は、転売市場や資産価値の影響も大きい。

物は楽しむ対象である以前に、

保存状態を競う金融商品のようになり始めている。

だが空所者にとって重要なのは、そこではない。

今、感覚が通っているか。

実際に触れているか。

役目を果たしているか。

そこに本質がある。

箱を守り続ける事で、本体へ触れなくなる。

保存を優先する事で、体験が停止する。

それは本来、かなり不自然な状態である。

本当に価値があるのは、箱ではない。

実際に触れ、使い、体験し、感覚が反応している“中身”である。

それ以外は全て、本質に付随した情報に過ぎない。

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