人は何かを先送りする時、よくこう言う。
「いつかやろう」
その言葉には、不思議な安心感がある。
今すぐ決断しなくていい。
今すぐ向き合わなくていい。
可能性だけは残せる。
だから人は、「いつか」を非常に自然に使う。
だが空所者として見た時、この“いつか”は極めて強力な停止状態でもある。
ゲームを遊ぶ。
本を読む。
模型を作る。
道具を使う。
整理する。
片付ける。
それらは全て、「開始」しなければ永遠に体験にならない。
しかし「いつか」は、その開始を無限に延期出来てしまう。
今は忙しい。
今は気分じゃない。
もっと良いタイミングで。
落ち着いたら。
時間が出来たら。
その繰り返しによって、人は可能性だけを保持し続ける。
特に現代は、“開始しなくても所有出来る時代”である。
購入だけなら一瞬で終わる。
保存も出来る。
積む事も出来る。
だから人は、「体験した気配」だけを蓄積しやすい。
だが実際には、開始されていない体験は、まだ存在していない。
ゲームは起動されなければ始まらない。
本は開かなければ読まれていない。
模型は作られなければ完成しない。
衣類は着用されなければ感覚へ触れない。
空所者にとって重要なのは、“所有している事”ではない。
実際に感覚へ通ったかどうかである。
人は時に、「いつか」の中へ理想の未来を保存する。
未来の自分なら出来る。
未来の自分なら楽しめる。
未来の自分なら整理出来る。
だがその未来は、現在の延長でしかない。
「いつか」は便利である。
だからこそ危険でもある。
決断を停止出来る。
体験を保留出来る。
現実確認を延期出来る。
そして最も恐ろしいのは、
“いつかやるつもりだった”
という感覚だけが残り続ける事である。
空所者は、可能性を否定したい訳ではない。
だが可能性だけを保存し続けても、感覚は動かない。
体験とは、開始した瞬間にしか生まれない。
実際に触れた時にしか、本当の価値は確定しない。
「いつか」は、一見未来へ進んでいるように見える。
だが実際には、
現在を停止したまま、時間だけを流している事がある。
だから空所者は問う。
それは本当に、“未来の予定”なのか。
それとも、
永遠に開始されないための保留なのかと。
コメント