人は一度強く好きになった物に、特別な感情を抱く。
夢中になって集めた物。
長い時間を共にした作品。
当時の自分を支えてくれた存在。
それらには確かに意味があった。
だからこそ、人は迷う。
もう触れていない。
長く使っていない。
それでも手放そうとすると、どこか裏切るような感覚が生まれる。
だが空所者として見た時、重要なのは「過去に好きだったか」ではない。
今も感覚が通っているかどうかである。
過去の愛情は、本物だった。
当時の幸福も偽物ではない。
だが、それと「現在も必要である」は別の話である。
人は時に、「昔好きだった」という記憶だけで所有を続ける。
だが実際には、既に役目を終えている物も少なくない。
それらは思い出としては大切でも、現在の生活や感覚とは切り離されている事がある。
空間は現在形で存在している。
今、触れているか。
今、視界へ自然に入っているか。
今、幸福を感じるか。
空間は過去の熱量よりも、現在の実感に強く反応する。
もちろん、思い出を否定する必要はない。
大切だった時間まで消える訳ではない。
本当に価値があった物ほど、手放した後も感覚の中へ残り続ける。
むしろ、「物として残し続けなければ忘れてしまう」という状態は、
感覚ではなく、不安によって所有している状態に近い事もある。
空所者は、過去を切り捨てたいのではない。
過去と現在を混同しないようにしているだけである。
人は変化する。
好きな物も変わる。
満たされる形も変わる。
そしてその変化は、決して裏切りではない。
「好きだった物」は、人生の一部ではある。
だがそれは、
“今も所有し続けなければならない”
という意味ではないのである。
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