物を手放せない時、人は「勿体ない」と言う。
高かった。
苦労して集めた。
限定品だった。
もう手に入らないかもしれない。
理由は様々である。
だが本当に恐れているのは、単純な損失ではない事がある。
もし手放して平気だったらどうだろうか。
もし無くても困らなかったらどうだろうか。
もし、思っていたほど自分に必要ではなかったとしたら。
その瞬間、人は向き合う事になる。
「自分は、そこまで必要ではない物に、時間やお金や感情を注いでいたのではないか」
という可能性に。
人は“失う事”そのものより、
「自分の選択が、思っていたほど本質ではなかった」
と認める事を恐れる。
だから所有を続ける。
既に感覚が離れていても。
長く触れていなくても。
空間を圧迫していても。
所有し続ける事で、過去の選択を正当化しようとする。
だが空所者として見た時、重要なのは「過去に正しかったか」ではない。
今も感覚が通っているかどうかである。
過去の自分は、その時確かに必要だったから選んだ。
そこに偽りはない。
当時の幸福も、本物だった。
だが人は変化する。
感覚も変わる。
必要な物も変わる。
変化した現在の感覚より、
過去の選択を守る事を優先し始めた時、
空間は少しずつ停止していく。
空所者は、過去の自分を否定したい訳ではない。
むしろ逆である。
当時、本当に必要だったからこそ役目を終えた物を、
現在まで無理に延命させ続けないのである。
手放すとは、「間違いだった」と認める事ではない。
その時代が終わったと受け入れる事である。
本当に価値があった体験ほど、物を失っても感覚の中へ残り続ける。
そして人は少しずつ理解していく。
所有とは、過去を固定するためではなく、
現在を生きるために存在しているのだと。
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