所有は、愛情の証明にならない

人は好きな作品や対象に出会うと、「もっと欲しい」と思う。

グッズを集める。

限定品を追う。

シリーズを揃える。

それは自然な感情であり、否定されるものではない。

だが、ある時ふと気付く瞬間が訪れる。

所有量と、愛情の深さは比例していない。

本当に好きな作品ほど、実は少数の物だけで十分満たされる事がある。

一番好きなフィギュア。

いつも視界に入るグッズ。

日常で自然に触れている存在。

それらだけで、感覚としては既に繋がっている。

逆に、惰性で増え続けた物はどうなるだろうか。

箱のまま積まれる。

奥へ押し込まれる。

存在を忘れられる。

やがて「管理対象」へ変化していく。

人は時に、不安から所有する。

「後で手に入らなくなるかもしれない」

「好きなら全部持つべきではないか」

「手放したら後悔するかもしれない」

その感情は理解出来る。

だが、その不安による所有は、安心よりも圧迫を生みやすい。

空所者にとって重要なのは、どれだけ持っているかではない。

どれだけ感覚が通っているかである。

毎日見ているか。

自然に触れているか。

存在によって幸福を感じているか。

そこに実感が存在しているか。

愛情とは、本来とても静かなものなのかもしれない。

大量の所有によって証明されるものではなく、

「これだけあれば十分だ」

と感じられる状態の中に、むしろ本質が現れる事がある。

本当に大切な物は、案外少ない。

そして少ないからこそ、一つ一つが鮮明になる。

空間の中で埋もれず、静かに存在し続けるのである。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次