人はなぜ、箱を捨てられないのだろうか。
本体は取り出した。
既に使っている。
飾っている。
役目も始まっている。
それでも箱だけは残され続ける。
もちろん、理由は存在する。
保護。
収納。
引っ越し。
売却。
それらには確かに実用性がある。
だが空所者として見た時、箱にはもう一つ別の役割が存在している。
それは、
“未来への執着”
を保存する事である。
いつか売るかもしれない。
価値が上がるかもしれない。
後悔するかもしれない。
また綺麗に仕舞うかもしれない。
その「まだ確定していない未来」を、人は箱へ保存している。
つまり箱とは、単なる包装ではない。
“未来の可能性を維持する装置”
なのである。
特に現代は、「状態」が極端に価値化された時代である。
箱付き。
完品。
輸送箱あり。
初版。
美品。
そうした情報が、本体以上に重要視される場面すらある。
その結果、人は物そのものだけでなく、
“未来の価値変動”
まで一緒に所有し始める。
だが空所者として見るなら、それは少し奇妙な状態でもある。
今、触れているか。
今、感覚が通っているか。
そこではなく、
「未来で損しないか」
が中心になり始めるからである。
箱を残す事で、人は安心出来る。
まだ完全には終わっていない。
まだ戻れる。
まだ最適状態を維持出来る。
その感覚を保持出来る。
しかし同時に、箱は空間へ静かな圧迫も生み出していく。
本体以上に嵩張る。
積み重なる。
保管場所を占有する。
そして何より、
「未来の可能性」を延々と維持し続ける。
空所者にとって重要なのは、未来の価値を守り続ける事ではない。
現在、感覚が生きているかどうかである。
本当に触れている物は、箱が無くても感覚へ残る。
本当に必要な物は、保存状態ではなく体験の中へ存在している。
だが人は時に、未来を失う事を恐れる。
だから箱を残す。
可能性を残す。
選択肢を残す。
未練を残す。
箱とは、単なる紙ではない。
「まだ終わらせたくない未来」
そのものなのである。
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