かつて人は、物を「使うため」に所有していた。
遊ぶためにゲームを買う。
読むために本を買う。
作るために模型を買う。
着るために衣類を買う。
所有とは、本来“体験への入口”だった。
だが現代では、少し違う流れが強くなり始めている。
持っている事そのものが価値になる。
限定品。
未開封。
コレクション棚。
購入報告。
積み写真。
コンプリート。
そうした文化の中では、
「実際に体験したか」
よりも、
「所有しているか」
の比重が大きくなっていく。
もちろん、人へ見せる楽しさを否定したい訳ではない。
コレクション文化そのものにも魅力はある。
だが時に、そこでは本来の目的が逆転し始める。
ゲームは遊ぶ前に積まれる。
模型は作る前に保管される。
フィギュアは開封前提ではなくなる。
本は読む前に並べられる。
つまり人は、
“体験”
よりも、
“所有している状態”
へ満足し始めているのである。
特にSNS時代では、この傾向が極めて強い。
所有は可視化出来る。
写真に出来る。
一覧化出来る。
公開出来る。
だから人は、
「どれだけ楽しんだか」
よりも、
「どれだけ持っているか」
を証明しやすくなった。
すると不思議な事が起きる。
体験していない物まで、“所有しているだけ”で満足感が発生する。
購入した。
届いた。
積まれた。
並べられた。
その時点で、ある程度の達成感が生まれる。
だから中身へ触れなくなる。
空所者として見るなら、それは非常に奇妙な状態である。
本来、価値とは感覚へ通った時に初めて確定するものだからである。
遊んだか。
作ったか。
着たか。
使ったか。
そこにこそ、本当の体験が存在している。
しかし現代では、体験そのものより、
“所有しているという事実”
が先に価値化され始めている。
人は時に、「持っている事」で安心しようとする。
まだ可能性がある。
いつでも始められる。
自分はそこへアクセス出来る。
その感覚を維持出来るからである。
だが空所者は逆に問う。
それは本当に、“体験した記憶”なのか。
それとも、
“所有している安心感”
へ満足しているだけなのかと。
物は、本来体験へ接続されるために存在している。
所有証明のためではない。
実際に触れた感覚だけが、
本当に自分へ残り続けるのである。
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