承認欲求そのものを否定するつもりはない。
人間である以上、誰かに認められたいと思うのは自然な感情だ。
問題は、その承認が人生の目的にすり替わった時である。
多くの人は承認を求めているのではない。
人生を生きた実感の代用品として承認を求めている。
旅行に行く。
写真を撮る。
投稿する。
反応を待つ。
そして満足する。
しかし、本当に満足したのは旅行だろうか。
それとも反応だろうか。
もし反応が無ければ価値が半減するのであれば、その体験は既に他人の所有物である。
自分の人生を生きているようでいて、実際には他人の評価の中を生きている。
承認欲求の恐ろしい所はここにある。
それは人生を少しずつ他人に委託する。
何を買うか。
何を着るか。
何を集めるか。
何を趣味にするか。
全ての判断基準が「自分がどう感じるか」ではなく、「どう見られるか」に侵食されていく。
そして気付けば、自分の人生なのに自分が不在になる。
私は最近、一つの違和感を覚えるようになった。
世の中には所有を誇る人があまりにも多い。
高級腕時計。
ブランド品。
大量のコレクション。
希少品。
限定品。
しかし、それらの多くは実際に使われていない。
体験されていない。
飾られているだけだ。
なぜだろう。
理由は単純である。
所有が目的ではないからだ。
見せる事が目的だからである。
他人に見せるための所有には終わりがない。
上には上が存在する。
より高価な物。
より希少な物。
より目立つ物。
承認欲求は決して満腹にならない。
なぜなら食べているのが承認だからだ。
そして承認は栄養にならない。
拍手は腹を満たさない。
称賛は部屋を綺麗にしない。
評価は人生を豊かにしない。
一時的な興奮を与えるだけである。
だから人は何度も同じ行為を繰り返す。
もっと評価を。
もっと注目を。
もっと反応を。
まるで塩水を飲むように。
飲めば飲むほど渇きは深くなる。
私は承認欲求そのものが悪だとは思わない。
しかし人生の中心に置く価値は無いと思う。
なぜなら承認は自分の外側にあるからだ。
他人が存在しなければ成立しない。
他人が興味を失えば消滅する。
他人の気分一つで価値が上下する。
そんな不安定な物に人生を預ける理由が私には分からない。
本当に価値があるのは、自分一人でも成立するものだ。
静かな部屋。
整った空間。
夢中になれる体験。
心が満たされる時間。
それらは誰にも見せる必要がない。
誰にも認められる必要がない。
ただ存在するだけで価値がある。
承認欲求は人生ではない。
承認欲求は人生の代用品である。
代用品を集め続ける人生と、自分自身の人生を生きる人生。
私は後者を選び確信した。
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