空所は価値である

先日、物置部屋に積み上げられていたプラモデルの箱を裁断した。

完成したプラモデルは既に別の場所へ移動している。

残っていたのは空箱だった。

高さにしておよそ1メートル。

長年そこに存在していた小さな壁である。

私はそれを裁断し、処分した。

すると不思議な事が起きた。

部屋が広くなった。

当たり前の話だと思うかもしれない。

しかし私が感じたのは単なる面積の増加ではなかった。

空気が変わったのである。

閉鎖感が消えた。

視界が抜けた。

部屋が呼吸を始めたように感じた。

その時、私は一つの事に気付いた。

人は物を所有しているのではない。

空間を失っているのである。

世の中では所有が美徳とされる。

家を買う。

車を買う。

時計を買う。

服を買う。

コレクションを増やす。

より多く所有する事が豊かさだと信じられている。

しかしその全ては空間を消費する。

どんな物であれ、必ず居場所を必要とする。

つまり物を所有するという事は、同時に空間を失うという事でもある。

それにも関わらず、多くの人は失った空間を数えない。

物の価値だけを数える。

私はこれを奇妙だと思う。

例えば一万円の商品を購入したとする。

人は一万円を払った事は覚えている。

しかし、その商品が十年に渡って占有する空間についてはほとんど考えない。

空き箱も同じである。

いつか使うかもしれない。

いつか売るかもしれない。

そんな理由で残された箱は、何年にも渡って空間を占有し続ける。

それは空き箱ではない。

空間の墓標である。

世間は空いている場所を見ると考える。

「ここに何を置こうか」と。

私は逆に考える。

「なぜ何かを置かなければならないのか」と。

空いている空間は不足ではない。

失敗でもない。

未完成でもない。

空いている状態そのものに価値がある。

何も置かれていない棚。

何も積まれていない床。

何も塞いでいない壁。

それらは無価値な余白ではない。

人が自由に呼吸するための空間である。

私達は物を得る事で満たされると思い込んでいる。

しかし実際には、物を得るたびに空間を失っている。

そしてある日、部屋が息苦しくなった時に初めて気付く。

失ったのは床面積ではない。

余白だったのだと。

私は空所者である。

だから断言する。

空所は不足ではない。

空所は価値である。

そして人生を豊かにするのは、何を増やしたかではない。

何を取り戻したかである。

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