私は最近、一つの違和感を覚えるようになった。
世の中には保管されている物が多すぎる。
読まれていない本。
遊ばれていないゲーム。
着られていない服。
使われていない道具。
開封されていないコレクション。
そして、それらを保管するための棚や箱や収納。
人はそれらを見て豊かさだと言う。
しかし私には別のものに見える。
未体験のまま積み上げられた人生である。
人は所有を価値だと考える。
持っている事に安心する。
持っている事に満足する。
持っている事に可能性を感じる。
だが、その可能性の多くは実現しない。
現実は残酷である。
人生には限りがある。
時間にも限りがある。
体力にも限りがある。
注意力にも限りがある。
それにも関わらず、人は無限の可能性を保管しようとする。
いつか読む。
いつか遊ぶ。
いつか作る。
いつか着る。
いつか始める。
その「いつか」が収納の中で眠り続ける。
私は思う。
人は物を保管しているのではない。
未来を保管しているのである。
しかし未来は保管出来ない。
未来は生きる事でしか存在出来ない。
読まれなかった本は知識にならない。
遊ばれなかったゲームは思い出にならない。
着られなかった服は人生を彩らない。
使われなかった道具は経験を生まない。
所有は可能性を与える。
しかし可能性そのものには価値が無い。
価値を生むのは実行だけである。
ここで一つの疑問が生まれる。
なぜ人は保管し続けるのか。
理由は単純だ。
選びたくないからである。
人は失う事を恐れる。
だから残す。
人は間違える事を恐れる。
だから残す。
人は未来の可能性を手放したくない。
だから残す。
その結果、人生は保管庫になる。
棚には未来が並ぶ。
押入れには未来が詰まる。
部屋の隅には未来が積み上がる。
しかし、その未来の大半は永遠に訪れない。
そして皮肉な事が起きる。
未来を守ろうとした結果、現在が失われるのである。
物は空間を占有する。
しかし本当に奪われているのは空間ではない。
意識である。
エネルギーである。
人生である。
視界に入るたびに思い出す。
気になる。
管理する。
整理する。
移動する。
守る。
その全てが人生の時間を消費していく。
私はある時気付いた。
人生は保管庫ではない。
人生は体験の場である。
本来、人が生きる理由は保管するためではない。
感じるためである。
遊ぶためである。
学ぶためである。
愛するためである。
体験するためである。
人生は倉庫ではない。
展示場でもない。
可能性を積み上げる場所でもない。
今という瞬間を生きる場所である。
だから私は選ぶ。
保管された百の未来よりも、一つの体験を。
積み上げられた可能性よりも、一つの実行を。
所有された人生よりも、生きられた人生を。
人生は保管庫ではない。
人生は体験そのものである。
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