欲しい物を見つける。
調べる。
比較する。
悩む。
そして購入する。
多くの人はここをゴールだと思っている。
しかし私は逆だと思う。
購入は終着点ではない。
出発点である。
にも関わらず、多くの物は出発する事なく人生を終える。
本棚に並ぶ未読の本。
積み上がる積みゲー。
開封されないコレクション。
使われない道具。
着られない服。
それらは購入された瞬間に役目を終えてしまった。
本来、その物が持っていた価値は体験に変換されるはずだった。
本は読まれて知識になるはずだった。
ゲームは遊ばれて思い出になるはずだった。
服は着られて日常を彩るはずだった。
しかし体験は発生しなかった。
所有だけが残った。
私はここに大きな勘違いがあると思う。
人は物を欲しがっているようでいて、実際には体験を欲しがっている。
ゲームが欲しいのではない。
遊びたいのである。
本が欲しいのではない。
知りたいのである。
道具が欲しいのではない。
何かをしたいのである。
それにも関わらず、購入した瞬間に満足してしまう。
なぜだろうか。
購入という行為は疑似的な達成感を与えるからである。
欲しかった物が手に入る。
所有権が移る。
達成感が生まれる。
脳はそれを成功だと錯覚する。
しかし実際には何も始まっていない。
登山で例えるなら、登山靴を買っただけで山頂に着いた気になっているようなものだ。
本当の価値はこれから生まれる。
それなのに人は出発前に満足してしまう。
私は長い間、この現象を不思議に思っていた。
なぜ人は使わない物を集めるのか。
なぜ人は体験しない物を所有するのか。
そして気付いた。
人は物を買っているのではない。
未来を買っているのである。
この本を読む未来。
このゲームを遊ぶ未来。
この趣味を楽しむ未来。
この服を着る未来。
人は未来の可能性を購入している。
しかし未来は保証されない。
時間は有限である。
体力も有限である。
人生も有限である。
結果として、多くの未来は実現されない。
そうして部屋には使われなかった可能性だけが残る。
私は思う。
物の価値は購入時が最大ではない。
体験した時が最大なのである。
読んだ本。
遊んだゲーム。
使い込んだ道具。
着続けた服。
そこには所有を超えた価値が生まれる。
傷が付く。
古くなる。
新品ではなくなる。
市場価値は下がるかもしれない。
しかし人生価値は上がる。
私は新品のまま眠る物よりも、使い込まれた物の方が美しいと思う。
なぜならそこには体験が刻まれているからである。
購入とは価値の獲得ではない。
可能性の獲得である。
そして可能性は体験されて初めて価値になる。
だから私はこう考えている。
買った瞬間に価値は失われる。
正確には、所有するだけの価値が終わるのである。
そこから先は体験しなければ何も生まれない。
購入は終わりではない。
人生において最も重要なのは、その後なのである。
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