人は物を購入する時、単に“物そのもの”だけを買っている訳ではない。
そこにはしばしば、
“未来の自分”
まで含まれている。
このゲームを遊び尽くす自分。
この本を読む知的な自分。
この模型を完成させる自分。
この道具を使いこなす自分。
そのイメージ込みで、人は物を手に取っている。
だから購入直後は満足感が強い。
まだ何も始まっていない。
それでも気分が満たされる。
なぜならその瞬間、人は“理想の未来”へ触れているからである。
だが空所者として見た時、ここには大きな落とし穴が存在する。
現実の自分は、まだ何も体験していない。
ゲームは起動されていない。
本は読まれていない。
模型は作られていない。
道具も使われていない。
つまり実際には、
“理想の自分の可能性”
だけが保存されている状態なのである。
特に現代は、この「可能性の所有」が非常に簡単になった。
物はすぐ買える。
保存も出来る。
積む事も出来る。
だから人は、
“まだ始まっていない理想”
を大量に所有出来るようになった。
しかし現実の時間は有限である。
集中力も有限である。
感情も有限である。
だから全ては実行されない。
すると空間には、不思議な物が増え始める。
“未来の理想の自分”
ばかりが堆積していくのである。
いつか遊ぶ自分。
いつか学ぶ自分。
いつか整理する自分。
いつか完成させる自分。
それらが大量に保存され続ける。
だが未来の自分とは、現在の自分の延長でしかない。
突然、無限の時間や情熱を持った別人へ進化する訳ではない。
空所者にとって重要なのは、理想を所有する事ではない。
実際に感覚へ通していく事である。
遊ぶなら遊ぶ。
作るなら作る。
使うなら使う。
出来ないなら、その停止を認識する。
そこに現実がある。
人は時に、「可能性」を愛している。
だが可能性は、未確定だからこそ美しい。
現実へ接続された瞬間、
そこには必ず、
向き不向き。
限界。
飽き。
疲労。
時間不足。
そうした現実が現れる。
だから人は、“理想の自分”を積み続ける。
開始しなければ、失敗も確定しないからである。
だが空所者は、幻想の保存を目的としない。
実際に触れた感覚だけを信頼する。
理想の自分を所有しているだけでは、人は変わらない。
現実へ触れた瞬間にだけ、
本当の自分が静かに見え始めるのである。
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