私は長い間、物を集める事に価値があると思っていた。
世の中もそう教える。
欲しい物を手に入れる。
手に入れた数だけ豊かになる。
所有する事は幸福である。
そんな前提が当たり前のように存在している。
しかし私は最近、その考えに疑問を持つようになった。
本当に欲しかったのは所有だったのだろうか。
実際には体験だったのではないだろうか。
例えばゲームを買う。
購入した瞬間は嬉しい。
しかしその喜びは長く続かない。
なぜなら本当に価値があるのはゲームソフトではなく、遊んだ時間だからである。
読書も同じだ。
本棚に百冊の本が並んでいても、一冊も読まなければ何も得ていない。
価値があるのは本ではない。
読書体験である。
旅行も同じだ。
旅行雑誌を百冊持っていても、一歩も外へ出なければ景色は変わらない。
価値があるのは情報ではない。
旅そのものである。
当たり前の話だ。
しかし不思議な事に、人はこの当たり前を忘れる。
そして体験ではなく所有を追い始める。
私はこれを代用品の罠だと思っている。
人は本当は体験が欲しい。
しかし体験には時間が必要だ。
行動も必要だ。
時には失敗も伴う。
一方で所有は簡単だ。
お金を払えば終わる。
今日から自分の物になる。
達成感も得られる。
だから人は錯覚する。
手に入れた事を、体験した事と。
所有は体験の予告編に過ぎない。
映画の予告編を見ただけで映画を観た事にはならない。
それにも関わらず、多くの人は予告編ばかり集めている。
積みゲー。
積読。
コレクション。
未開封品。
限定品。
それらは体験の残骸ではない。
体験されなかった可能性の墓場である。
私はそれらを否定したい訳ではない。
問題は別の所にある。
人は所有によって満たされると信じている。
しかし実際には満たされない。
なぜなら体験していないからである。
だから次を買う。
また次を買う。
さらに次を買う。
それでも満たされない。
当然だ。
喉が渇いている人にコップを渡し続けても、水を飲まなければ渇きは癒えない。
必要なのはコップではない。
水である。
同じように必要なのは所有ではない。
体験である。
私は最近、一つの考えに辿り着いた。
人は所有するために生きているのではない。
体験するために生きている。
死の間際に思い出すのは、所有物の数ではない。
何を感じたか。
何を見たか。
何を経験したか。
そのはずである。
だとすれば人生の価値は所有量では測れない。
体験の密度によってしか測れない。
所有は便利である。
所有は安心を与える。
所有は可能性も与える。
しかし所有そのものには価値が無い。
価値を生むのは、それによって生まれる体験だけである。
私はそう確信した。
所有は体験ではない。
所有は体験の代用品である。
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